【旅235日目/7月1日】萩おはぎ。

◎235日目 天気:晴れのち雨◎


この日は久々に晴れました!!

ひっさびさ!!

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晴れたら景色もぐっと色を増してきます!




萩についてからはまず萩城跡へ◎

城跡っていってもなんか少しは魅力あるかな〜

って思いながら入ったんですが、


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本当に何もなかったです笑




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土壁に描かれた落書き

最初見たときはちょっとむっとしましたが、

これが何十年も何百年も残ってたら

これ自体が遺産になるかもしれないから面白いですよね!



萩城

関ヶ原の戦いで敗れて周防国長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元[1]は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。

指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真[2]で見ることができる。現在、二の丸土塀や三の丸総門など一部は復元されている。さらには、破却された天守など建物の復元を行う動きもあるが、財源の問題で難しくなっている。現在は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。



wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%9F%8Eより



萩には日本の歴史上重要な役割を果たした偉人がたくさんいます。



1人目 高杉晋作

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高杉晋作

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。



『おもしろきこともなき世をおもしろく。』



2人目 木戸孝允

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木戸孝允

木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。位階勲等は贈従一位勲一等。長州藩士で、明治初期における「長州閥」の長(おさ)と認識されることが多い。幕末期には、桂 小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩西郷隆盛大久保利通とともに「維新の三傑」「維新の十傑」として並び称せられる。その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。






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3人目 吉田松陰

吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。



この吉田松陰という人がいたからこそ、ここ萩からたくさんの偉人が頭角を表したと言っても過言ではないです。現に、松下村塾において松陰は久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山縣有朋吉田稔麿入江九一前原一誠品川弥二郎山田顕義などの面々を教育してたのですからね。



この松陰先生の教えの親がこの人

4人目 玉木文之進

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玉木 文之進(たまき ぶんのしん)は、幕末の長州藩士で教育者・山鹿流の兵学者。松下村塾創立者吉田松陰の叔父に当たる。諱は正〓であるが、玉木文之進が一般的な呼び名である。家格は大組。石高40石。



吉田松陰を厳しく育てた玉木文之進。この人の教えが吉田松陰を育て、

長州藩を強くし、後に明治という新たな時代を切り開いてくのです。

考えや教え方にどんな先見の明があったかはわかりませんが、幕末に生まれていたらこの人に学びを得たかったなあ〜と思ったり思わなかったり。




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5人目 伊藤博文


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これの右上



伊藤博文

伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。幼名は利助(りすけ)、のち吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」など。「春畝公」と表記されることも多い。周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老。アジア最初の立憲体制[注釈 1]の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺される。



伊藤博文はたぶんみんな知ってる有名人ですね。

この人も吉田松陰から松下村塾で教えを受けてます。そんな人が初代総理大臣なのだから、

日本人全員に松下村塾の教えは浸透してるのかもしれないですね!!



他にも萩の偉人はたくさんいますが

時間の都合上みてまわれなかったです。。。




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吉田松陰の墓


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玉木文之進の墓


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高杉晋作の墓


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吉田松陰の実の父 杉百合之助





んでこっちは藩主毛利家の墓

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お墓の並びはこの通り。


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赤い字は藩主の妻のお墓


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亀の顔が一つ一つ違います!!


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ここら辺は雰囲気のあるお墓




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振り返ってもう一枚。



この変で少し変だな〜って思い始める。



何がへんなのかなーって最初よくわかんなかったですが

最後ここを出るときにわかりました。





気付いたんだ。



ここ東光寺っていうお寺なんだけど、

お寺なのに鳥居があるんですヽ(゜▽、゜)ノ






そんでまた気付きました。







今日の走行距離20km





まだまだ北海道への道のりは長い。。。

この日は近くの道の駅『萩しーまーと』で野宿です。

変な名前だなって思ってたんですが









看板見てわかりました。









sea mart(しーまーと)





それでは!




記録



走行時間 2時間10分

走行距離 30.48km

平均速度 14.0km/h

最高速度 54.6km/h

消費カロリー 350kcal

総走行距離 5972km



お金



飲食費 218

萩城跡 210円

かゆみ止め 417円

お酒 928円

計 1773円

総計 292,312円



ルート




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